エッチ、アンド、笑む

銀座、INAXギャラリーにて長谷川堯氏のレクチャーへ。



やや(かなり)怪しい理解ながらも振り返ってみると。。。



主にその著作「建築の出自」からの解説。
前半はスライドで前川國男の建築のヴァナキュラー性や東京海上ビルを前にして「のどにつかえる」と発言したこと等に着目しながら、前川自身の近代建築の捉え方と周りの評価のズレを指摘。さらに、いわゆる近代建築の先駆者という鎧を脱ぎたかったのではないかとも。ここから見出されるのは、前川や谷口を代表する昭和建築が大正建築(「私性」としての大正建築)をエポックとして内在的に抱えていたのではないかということ。そこからさらに展開して(具体例としてはシンケルのアルテス・ムゼウム→コルのチャンディガールの州立議事堂→前川の東京文化会館など)、近代建築がそれ以前の建築様式と切り離された上で出現したのではなく、近代建築においても過去の建築様式が連綿と内在しているという認識をもっとすべきであるという主張。
後半は、「建築の出自」や「建築の多感」におさめられている他の建築家の話を少々。その話の中でも特に、東の塔の家や宮脇のボックスとしてのプライマリーさ(キュビスム)と比較して、さらにそれを崩すという立場に伊東のチューブ性(チュビスム)があると指摘したことが面白いと思った。



印象的であったのは、前川自身が東京海上ビルを前にして「のどにつかえる」と発言したこと。(有名な話らしい。) うーむ、これにはかなり複雑な気分になりました。巨大建築に対する建築家の解答というものがいまだない(と思うけどレムとかはそうなのかな?)ということの暗示でもあったのかな。



まあとにかく、「資本主義と建築の結びつくところに未来はあるのか」と大きなことを自問しながら、そして「小さい僕に何ができるんだろうか」などということをすこし暗澹たる気持ちを抱きながら自問するというような状態での帰路となりました。



ふー。なんとなく今日のレクチャーはこたえた。



太田博太郎の「日本建築史序説」を読んだ直後に坂口安吾を読み直しているという状況であったということも関係していると思う。結局のところ色々と混乱しているのだと思う。ものごとを整理する能力に欠けるということは自覚しているつもりなのだけれど、もうちっとなんとかならんだろうか。。。
混乱したまま暗澹たる気持ちになるのはこたえるのだー。



どうすればよろしいやら。もう眠い。



寝るか。




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それは天気のせいさ〜♪