長くなっちゃった
ただ思いのままキーボードを打ってみる。
僕の中に何がどう残っているんだろうか、と思うことがある。
そして、どう変換してどうアウトプットして生きているんだろうかと。
そのような考えは自分を記憶ー変換ー出力という動作をする装置として捉えているわけである。
つまり、社会装置としての人間。装置と言っても、ここでいう装置とは前近代のメカニックな装置ではなく、電子化した装置。変換の過程が視覚化されない装置。
自分の何がしかの出力によって、他人の記憶に残し、他人の出力への影響を信じる。そのような装置。
この装置による影響の連鎖が向かう方向は、ある種の相対化にのっとった単一化(はたまた匿名化)としての社会であるのか、どうなのか。
(相対化にのっとった単一化とは変な言い方だけれど、このねじれっぷりが今なんだとおもう。)
つまり差異を広げているのか、縮めているのか。世界は広がっているのか、縮まっているのか。
そのような議論が提出され、また現に議論されているのかもしれない。そして頭のいい人はすでに答えまでも用意しているのかもしれない。
最近よく耳にし、また自分自身よく使う「匿名化」という言葉は、装置としての人間という前提から生まれているような気がする。
でも、やはり装置としての人間、入力ー変換ー出力というシステムとしての人間という捉え方では、捉えきれない何がしかがある気がしてならない。
では、社会の中の人間をどう捉えたらいいだろう。それは社会や環境をシステムとして捉えることから否定していかないと見つからないのだろうか。
うーん、うーん。
ところで、「みんな存在しているだけで、何がしかを表現している」、という考えを装置としての人間という前提に立って捉えてみる。
すると、関わり合っている中での自己は、関わり合っていることを根拠に、そこにあるだけである種の世界を表現しているという捉え方になる。
次に、装置としての人間を前提にしないで、「みんな存在しているだけで、何がしかを表現している」ことを考えてみる。
ここでは、人間は生まれてきたその瞬間から何がしかの世界をすでに獲得しているという捉え方になる。「百万円と苦虫女」はこの捉え方で出来ている映画だと思う。
そこでは、自己という存在を逃げないで真正面から向かい合うことが、世界との相対化に繋がっていく。さらに、ここでの相対化は単一化、匿名化には繋がっていかないのではないか。差異化としての相対化。
装置としての人間である前に、人間はすでに自己完結性をもった存在である。と考える事で、気張らずにすむことは沢山ありそうだ。
だけれど、みんな(少なくとも僕は)、「自分はすでに自己完結性を持った存在である」と信じるのが苦労するのである。
それを信じるには結局のところ堕ちるしかないのだろうか。坂口はそう言っているようだ。そして自己を発見するのだと。
さてはて。
そして当然、僕は堕ちきっていないのである。
ただ思いのまま、キーボードを打ってみた。
「コイン」山崎まさよし
この人の詩はスーッと僕の中に入ってくる。
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原色に塗られた街で ひとときのぬくもりが欲しくて
あやふやな触れあいの中に 信じられるものを見つけたくて
あてのない夜は 空を見上げて何を願うだろう
気づいたら君の名前を呼んでいる
胸のまん中に何もかかげず 手をかざす誓いも何もなく
一人ぼっちで歩いてると なぜか水辺にたどりついている
澄んだ水の底に沈んだコインは誰の願いだろう
気づいたら君の名前を呼んでいる
あてのない夜は空を見上げて何を願うだろう
気づいたら君の名前を呼んでいる